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日本版シルクロード紀行。その後、日本列島改造論に変質。第〇次全国総合開発計画(〇全総)の嵐。その後、田中角栄元総理により。日本の一極(東京)集中現象、地方は過疎の金太郎アメになってしまった。 私は日中外交にしろ台湾を蚊帳の外に置いた氏を絶賛しない。名前は個性であり、台湾を中華台北などと言ってはいけない<^^>10年ぐらい前に〇全総対象の工場を見たら廃墟と化してた(おふくろの古里)。 この時代は日本経済が拡大を続け、成長の恩恵があった。いわば、パイが大きくなり、皆が幸せになれる時代とも言えた。佐藤栄作内閣は「社会開発」を掲げた。過密・過疎、公害等の弊害が顕著になってくるの はこの計画末期のことである。 太平洋ベルト地帯「以外」への工業分散を目標として、現実に全国において「工場地帯」の進出がいくつかは進んだが、それらはほとんどが当初は重化学工業であり、その後の石油 危機、経済の安定成長、国際競争を経験し、規模・雇用者は当時からは大きく減らしている。40年後の今日、ふりかえって現実をみると、太平洋ベルト地帯の中でも関西圏や北九州の地盤沈下が目立ち、ベルト地帯 のその一部に過ぎない首都圏への一極集中(東京一極集中)が進んでいる。 「均衡ある発展」はこの計画の策定当時からの課題であったが、以後、5次にわたる計画においても克服されていない。むしろ、近年では一律に「均衡ある発展」を目指すのは無理があるとの理解のもと、「特色ある発展」 と言い換えられるようになっている。 なお、地方開発拠点は、工業開発拠点と並んで強調されたものの、その後具体的な施策の進 展はみなかった。田中内閣が発足すると、田中は首相の私的諮問機関として日本列島改造問題懇談会を設置し、8月7日 の第一回を皮切りに会合を重ねた。当初75名だった懇談会の委員は途中で90名に増員された。9月には総理府政府広報室 が列島改造論について、「知っているか」「主要点の賛否」「期待」などについて面接聴取している。またグリーンピア 構想は、列島改造論に促されて具体化し、8月に厚生省年金局と大蔵省理財局がグリーンピアの設置に合意した。 これらに触発されて日本列島改造ブーム(「列島改造景気」)が起き 、日本列島改造論で開発の候補地にあげられた 地域では投機家によって土地の買い占めが行われて不動産ブームが起き、地価が急激に上昇した。この影響で物価が 上昇してインフレーションが発生し、1973年春頃には物価高が社会問題化した。 日本にとって、首都の過密と地方の過疎は、当時よりも一層深刻な問題になっており、少なくとも田中が日本列島改造論 を著したのは、こうした状況への問題提起としての意味を持っていた。交通網の整備で様々な課題が解決するという発想 は、「土建業一辺倒だ」という批判もある。地方から過密地(特に首都・東京)へ向かう交通網の整備は、大都市が持つ 資本・技術・人材・娯楽が、地方にも浸透しやすくなったことは事実であるが、同時に地方の住民・人材・企業もまた大 都市に流出しやすくことなったことで東京一極集中と地方過疎化をより促進してしまうということが起こった。地方での 駅や道路の建設も同様の事象が起こり、駅ナカ・駅前・郊外へのストロー効果を招き、中心市街地が衰退してしまった。 田中が抱いていた理想の未来には不十分で程遠い結果であった。